240519

 

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きょうの一輪挿し
自由記入欄

きのうは近くの田畑を見に行ったが鳥ゼロ羽だった。

今日は青木ヶ原に行ったが鳥ゼロ羽だった。

鳥に会いたい。

 

自由記入欄


みなさん、りりちゃんのツイッター見てますか?

あんまりうかつなことを言うのははばかられるのだが、りりちゃんの文章、すごすぎない?

川本真琴と初めて出会ったときのような衝撃だ。いったん背景をすべて抜きに話をさせてもらいたいが(そんなに詳しくもない。マニュアルも読んでないし)、りりちゃん、日本語八段じゃないですか? こんなに上手に日本語を扱える人はそうはいない。この瑞々しさのまえでは自分がひとりの日本語母語話者であることすら恥ずかしくなってくる。それぐらいの才能だ。

このツイートの節のくりかえしの音はまるで円谷幸吉の遺書を思わせる。円谷幸吉の遺書は俺の知る限りもっとも悲しくて孤独な日本語だ。生前お世話になった人と、その人と食べた料理そしてその感想を「おいしゅうございました」という言葉で締め綴る。そのくりかえされる「おいしゅうございました」が、読む人の心に鈴の音のように軽く静かに響く。くりかえしくりかえし。そのたびに深く、奥へ、届く。

りりちゃんが円谷幸吉の遺書を知っているわけではないと思うので単純に自己からこの表現が出てきたのだと想像するが、それだけでも並の感性ではない。あと俺がすごいなと思うのが「熟した憎しみ」という表現。これ、なんか使われてみるとありきたりな表現、どこかで聞いたような表現にも見えるのだが、いざ考えてみると俺は「熟した憎しみ」なんて修飾と名詞のつながりは見たことがない。でもたしかに違和感なくつながっている。この単語とこの単語がつながる、というのを自分で見つけられるのはごく限られた人間だけ。「熟した憎しみ」。『熟した』という単語は青い果実が赤くなる、というポジティブなイメージと、赤い果実が腐敗に向かいゆく、というネガティブなイメージを持っていると思う。このりりちゃんの『憎しみ』を修飾しうる言葉は『熟した』しかなかったのだ。「熟した憎しみ」。借り物じゃない、自分の言語感覚を持っている人から出る言葉。魅せられてしまう。

 

ただ、俺が知ったようなクチをきくのは正しいことではないと思いつつも、この人はこういう才能を持っているばかりにより大きな不幸へ落ちてしまうのではないかと感じる。いまはもう日本にある全出版社がりりちゃんにアタックをかけているだろう。マニュアルを活かした『人に好かれるための技術』みたいな本から『獄中日記』『自伝』、この人はいくらでも出せる。この人にはほかの人にはない突出した才能がある。本を書けば間違いなく売れる。この人はお金になる。お金を稼ぎたい人間が、こんな、まさに金の生る木のような人間をほっとくことはできない。いくら切って捨ててもお金を稼ぎたい人間が近寄ってくるだろう。

才能がないことが幸せだとは思わないし、俺も「もっと才能があったら!」と嘆くことは日常茶飯事なのだが、それでも、才能がないことは慢性的でおだやかな不幸だと思うんだよな。それに対して、才能があることは急性的で極端な不幸につながる。そもそもおじさんからお金を巻き上げるスキームなんて、うまい人もヘタな人も、やってる人はみんな感覚でやってるはずだ。その感覚を言語化して、さらにプロセスをマニュアル化して標準化する能力があったために懲役13年をくらっている。そんな突飛な能力がなければいくらなんてもそんな大きな罰は受けなかったはずだ。いまでもこうしてSNSを通じて本人の才覚が大衆の目に触れるようになってしまっている。才能があるからフォローされコンテンツとして消費され続ける。才能さえなければみんな忘れてくれるのにな。

ちなみにみんな、ここを見ている人以外のみんなのことですが、俺のことって忘れてますか? 忘れちゃった? 俺に、俺にオモロの才能がないからですか??

 

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